写真:堂ビル
ABOUT 堂ビルについて

❖ コンセプト

変化する都市の成長の種を育む「軽快なるビジネスルームの提供」


開業時に創られた『株式会社堂島ビルヂング建築概要』には、「華美又は豪壮など誇りの気分を離れて堅固なる組立の上に軽快なるビジネスルームの提供を主眼」とすると記されています。

徹底した合理主義のもと、装飾よりも設備やオフィス環境を整えることを重視した創業者の想いが伝わってきます。その結果、1923(大正12)年からさまざまな新興企業が入居し、ビジネスを成長させて巣立っていきました。また、人々の交流を促し都市文化の一翼を担ってきました。

時代の移ろいとともに大阪の都市も大きな変貌を遂げましたが、堂島ビルヂングは同じ場所、同じ構造を保ちながら、内外装や設備を整備し時代に適応してきました。そして、大阪のビジネスや都市文化のインキュベーション施設としての役割を果たし続けてきました。

これからも100年の歴史を受け継ぎ、挑戦と革新を続けながら、大阪のビジネスと都市文化の成長の種を育んでいきます。

オフィス空間 広さ・価格・レイアウト全てにおいて、お客様のご満足いただけるように、時代のニーズに合わせた共有スペースの整備はもちろん、お客様ごとの要望に合わせてフレキシブルなオフィス空間を提案いたします。
運営管理体制 働く環境を考えるとき、建物や設備の品質もさることながら、働く人と企業をサポートするパートナーの役割は重要です。私たちは徹底した「自社管理」を強みに、顔の見えるコミュニケーションを大切にしています。
ロケーション 梅田へも徒歩圏内で、8駅9路線が利用可能な大阪の主要ビジネスエリアである「淀屋橋」という絶好の立地で、大大阪時代以来のメインストリートである御堂筋に面しています。

また、日本銀行大阪支店、大阪市役所、大阪地方裁判所が近隣にあるほか、大阪市中央公会堂、大阪府立中之島図書館、大阪市立東洋陶磁美術館、こども本の森 中之島、中之島公園などが集積しており、政治経済だけではなく文化を育む場所に立地しています。この恵まれた場所でお客様のビジネスは成長するでしょう。

❖ ストーリー

「大大阪」から「令和」まで。100年の歴史を刻み、未来を創造するためのビル

創業者と堂島ビルヂングの建設計画


株式会社堂島ビルヂング創業者の橋本喜造は、大分県中津出身、長崎県で育った実業家・政治家で、後に神戸を拠点として橋本汽船など多くの会社を創業し、主に海運業を営んでいました。日本のサルベージ業の祖である叔父、橋本雄造に養育され、長崎商業学校(現・長崎商業高等学校)を卒業、アメリカ遊学の後、アメリカのタンカー船を操舵し、世界の海を航海しました。世界の都市事情に精通していたため、日本にもオフィスビルの時代が来ることを予見していました。


1917(大正6)年頃、第一次世界大戦で4隻の貨物船をドイツの水雷艇、浮流機雷のために喪失した経験から「陸の上に沈まぬ船」として大阪にオフィスビルの建設を計画します。その後、大江橋北詰の堂島の東端、堂島川畔の敷地を取得し、1919(大正8)年、合名会社竹中工務店(後に株式会社)の創業者、竹中藤右衛門と会合をかさねビル建設を進めていきます。


同じく1919(大正8)年には、日本で初めての近代都市法である都市計画法と市街地建築物法(建築基準法の前身)が公布され、高さ制限「百尺」(約31メートル)が定められました。また、大阪市の都市計画である大阪市区改正設計が定められ、まさに近代都市「大大阪」に向けて大阪も生まれ変わる時期でした。

写真:橋本喜造

橋本喜造

写真:大阪ビルディング(現・堂島ビルヂング)建築敷地

大阪ビルディング(現・堂島ビルヂング)建築敷地

堂島ビルヂングの計画も大いに影響を受けます。御堂筋の拡幅が決定したため、御堂筋に面する敷地前面約22メートル、約600坪を大阪市に無償で譲渡しています。また、敷地が狭くなったため当初4階建ての予定を、延べ床面積を確保するため高さ制限上限の地上9階建て地下1階の高層ビルに計画変更し、「大大阪」の都市計画に積極的に位置付けます。さらに、大阪ビルディングという名称で計画していましたが、大阪商船が同名のビルの計画を立てていることが判明し、名前を譲り堂島ビルヂングに変更します。


1920(大正9)年4月には、株式会社堂島ビルヂング(当初は堂島ビルディング)が創立されます。竹中藤右衛門や山口半兵衛(山口銀行)が初期の取締役にもなり、出資者には伊藤萬助(伊藤萬商店)、野村徳七(野村証券)、芝川又右衛門(千島土地)、田村駒治郎(田村駒商店)など当時著名な財界人が顔を揃えました。

最新の設計・施工・設備


設計・施工は竹中工務店ですが、当初は、アメリカのオフィスビル設計のノウハウを取り入れるためニューヨーク在住の日系アメリカ人建築家、妻沼岩彦(英名:Thomas S. Rockrise)に設計を依頼しました。しかし、御堂筋の拡幅決定や市街地建築物法の施行により、設計の修正に伴い現地で多くの折衝が必要となり中断します。初期案は、アメリカのアールデコ風のオフィスビルのデザインでした。


原案を重視するという条件で、実施設計は竹中工務店の鷲尾九郎が中心となって担当することになり、顧問に武田五一京都帝国大学教授を迎えます。後に小林一三に「竹中の至宝」と言われ、竹中工務店の近代化を推進していく鷲尾のもと、構造設計は、竹中工務店の初期の構造設計を牽引した藤井彌太郎、設備設計は瀬戸強三郎など、竹中工務店のスペシャリストが集いました。

写真:大阪ビルディング(現・堂島ビルヂング)株式会社全景

大阪ビルディング(現・堂島ビルヂング)株式会社全景

さらに、多くの業者や職人が招集され、その数、延べ128,000人に達しました。そして、20か月の工数をかけ、高さ約百尺、鉄筋コンクリート造地上9階、地下1階の近代オフィスビルが1923(大正12)年6月1日に竣工し、7月に開業しました。7月21日には開館式が行われています。


当初は、鉄骨を入れる予定でしたが、鉄筋を工夫して強度を上げ、柱や梁などの構造部分にコンクリートを使用しています。同年の9月1日には、関東大震災が起き、柔軟性のある鉄筋コンクリート造の被害が少なかったこともあり、その後のビル構造の主流になりました。また、「百尺規制」が初めて適応された大阪で最初のビルになり、戦後に美しいスカイラインに揃う御堂筋の街並みに先行しました。「東の丸ビル、西の堂ビル」と並び称され、1925(大正14)年の第二次市域拡張以降、日本一の市域と人口(世界第六位)を誇った「大大阪」のランドマークになりました。

写真:竣工直後の堂島ビルヂング

竣工直後の堂島ビルヂング

洋画家の小出楢重が指摘するように、当時の大阪はまだまだ「黒く低い屋根の海」(「上方近代雑景」『めでたき風景』所収)といった風景でしたが、その中において象牙色の煉瓦が貼られた「白亜」の高層ビルとして注目を浴びます。そのモダンな外観やビル上階からの眺望は、多くの絵葉書になった他、小出楢重や石井柏亭、青木宏峰(大乗)、三木俊二などの画家たちのモチーフとなりました。


また、オフィスビルのテナントの快適性を重視し、徹底した合理主義に基づいた設計と設備の充実が図られました。西側外観は、セセッションやアールデコの影響がみられますが、東側は土地の形を活かした非常に合理的な造形となっています。さらに空調やオーチス製のエレベーター、暖房、水洗トイレなど、最新の設備を誇りました。

写真:堂ビル絵葉書 提供/橋爪紳也コレクション

堂ビル絵葉書 提供/橋爪紳也コレクション

堂島ビルヂングをはじめとして、大正から昭和初期にかけて大阪にも次第にオフィスビルが立ち並ぶようになりました。世界恐慌以降、業界の結束の必要性が高まり、堂島ビルヂング、大阪ビルディング(現ダイビル)等が中心となって呼びかけ、1930(昭和5)年にビルディング懇話会が発足、後に大阪ビルディング協会が創立され、橋本喜造は初代の会長に就任します。

写真:エレベーターホール

エレベーターホール

堂島ビルヂングのテナント


堂島ビルヂングには、まだ一軒家を構えるという商慣習が強く残るなか、当初はいわゆるベンチャー企業や海外の会社が入居しました。さらに、堂島ビルヂング直営の組織として、7階・8階に堂ビルホテル(当初は堂島ホテル)を運営し、まだまだ洋式ホテルの少ないなか、多数の外国要人を迎えます。当時まだ目新しかったホテル内での神前結婚式が行われ、その記念写真は特約写真館、田辺写真館のオーナーであった田辺聖子の父らが撮影しました。大阪朝日新聞社の仕事をしていた岡本太郎の父である漫画家、岡本一平の大阪の定宿でもあったようです。


また、堂ビル女学院のほか、堂ビル洋裁学院、堂ビル割烹学院など、さまざまな女性教育機関を運営し、女学校卒業後の女性教育ニーズを満たしました。

写真:堂ビルホテル 提供/橋爪紳也コレクション

堂ビルホテル 提供/橋爪紳也コレクション

堂ビル洋裁学院は最大800名ほどが通った大阪で当時最大規模の洋裁学院であり、多くの人材を輩出しています。さらに、堂ビル割烹学院は辻徳光(現・辻学園調理・製菓専門学校創業者)が院長となった本格的な割烹学院でした。堂ビル女学院は、当時「花嫁学校」と言われ、小説家、片岡鉄兵の『花嫁学校』の舞台にもなっています。


初期の主要なテナントとして、3階に竹中工務店が本店を置いたほか、2階には堂ビル百貨店、5階に中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)の運営する中山文化研究所、9階には小林一三(阪急東宝グループ創業者)や松下幸之助(松下電器創業者)、早川徳次(シャープ創業者)などの企業家が社員となった社交倶楽部、清交社などが入居しました。

さらに、一時期、中山太陽堂系列の出版社、プラトン社が入居していました。プラトン社には編集者として直木三十五と川口松太郎、デザイナーとして山六郎や山名文夫らが在籍し、谷崎潤一郎、芥川龍之介、大佛次郎、江戸川乱歩、岡本一平など錚々たる執筆陣が寄稿した雑誌を発刊しており、阪神間モダニズムを牽引した存在として再評価されています。このように堂島ビルヂングは、ビルが一つの街のような多様性と利便性があり、数多くの政治家、起業家、文化人、女学生が集い、交流する「大大阪」の文化センターとして機能していました。

写真:堂ビル女学院

堂ビル女学院

時代に合わせたリニューアル


戦後は、時代に合わせて2回の大改修工事を行います。戦時中は、空襲の被害は少なかったものの金属供出などで設備の大半を失い、戦後は復旧作業に追われました。そして、創立40周年を迎えた1960(昭和35)年に、外観を当時のモダニズム建築風の水平ラインを強調した意匠に改修し、設備も冷暖房やエレベーターを新設することで、快適なオフィス環境を整えます。


その後、阪神・淡路大震災の影響で、多くの窓が落下したこともあり、1997(平成9)年から、2度目の大規模な改修工事を実施します。外観は耐震性のあるガラス・カーテンウォールに一新し、低層部にはクラシックな意匠を施しました。設備も、24時間対応の個別空調に切り替え、OA対応の光ファイバー設備を完備し、いち早くインターネット時代に適応したビルになりました。

写真:昭和の改修

昭和の改修

その都度、時代に合わせて外観を改修し、設備を充実させ、快適なオフィス環境を提供するという創業以来のコンセプトを維持しました。今では当たり前となったリノベーションも先駆的であったと言われています。そのため、現在の外観からは、竣工時の意匠は想像できませんが、内部に入るとその分厚い躯体や造りに面影がみられます。


堂島ビルヂングは、大阪100年の歴史を見守り、ビジネスや文化を育むビルとして、これからも歩み続けていきます。

写真:平成の改修 写真/野村建設工業株式会社

平成の改修 写真/野村建設工業株式会社

❖ 会社概要

株式会社堂島ビルヂング

商号堂島ビルヂング
設立1920(大正9)年4月8日
所在地大阪市北区西天満2丁目6番8号
関連企業株式会社雲仙観光ホテル
加盟団体一般社団法人大阪ビルディング協会

❖ 建築概要

名称堂島ビルヂング
構造鉄筋コンクリート造/地上9階・地下1階
敷地面積2,491.20㎡
延床面積19,732.30㎡
賃貸面積14,765.68㎡
設計施工合名会社竹中工務店(現・株式会社竹中工務店)
改修野村建設工業株式会社
竣工1923年6月竣工、7月開業

❖ 設備概要

エレベーター乗用4基(15人乗・1,000kg)
貸物用1基(1,000kg
空調
個別空調冷暖フリー方式(24時間対応)
水道
加圧給水ポンプ方式
受電設備
6.6KV 本線予備線受電方式
電気容量
50VA/㎡(コンセント)
警備
24時間有人警備
床仕上
OAフロア