第1章|大大阪時代

堂島ビルヂングの計画

「陸の上に沈まぬ船」を作る

1917(大正6)年、橋本喜造は、橋本商店(後の橋本商会)の2代目となる義兄の橋本辰二郎(はしもと たつじろう)(長崎県選出貴族院議員)の協力を得て、大阪市に近代的な高層ビルディングの建設計画を立てる。同年、喜造は竹中工務店に設計・施工を依頼し、後の橋本汽船ビルを作っており、その経験を活かして、大阪に進出しオフィスビルを経営することを検討していた。そして、堂島川畔の用地買収に着手する。

喜造は、世界の都市事情に精通しており、鉄骨鉄筋コンクリート造などの新しい工法、エレベーターや空調などの近代的な設備による高層オフィスビルが日本にも必要になり、普及するのを予見していた。また、第一次世界大戦時に、建国丸など合計4隻をドイツの水雷艇、浮流機雷によって沈没させられた経験から、近代的なビルを「陸の上に沈まぬ船」として考えていた。

当時、世界有数の商工都市として発展し、人口が流入していた大阪では、その土地の狭さから建物の高層化は必須になってきていた。堂島ビルヂング創立趣意書には「地價(ちか)の暴騰と建築費の增嵩(ぞうすう)とは、新たに市の中樞(ちゅうすう)地域に營業所(えいぎょうしょ)を得んとするも、到底望むべからざる」「如何にして此缺陷(けっかん)を補ひ活動利便を增加(ぞうか)せしむべきかは、實(じつ)に喫緊の研究問題」「我がビルディング建築を計畫(けいかく)するもの亦た實(じつ)に之が爲(ため)也」と記載されている(『株式會社堂島ビルディング創立趣意書』1920年)。

そして、堂島川畔の大江橋北詰、梅田新道(後に御堂筋の一部となる)沿いの約1,347坪(約4,453㎡)の広大な土地を神戸の鈴木商店などから取得した。建築面積約1,200坪(約3,967㎡)の大建築を作り「30年間は大阪ビルヂング界の王座を保持する計畫(けいかく)」であったという(『大阪案内記』國勢協會、1932年)。1909(明治42)年、「北の大火」で延焼したため瓦礫で埋められた曽根崎川(蜆川)の水路跡と、堂島川の間の土地であった。

しかし、この地所の一部は都市計画による街路事業の対象となる。1919(大正8)年の大阪市区改正設計のもと、1921(大正10)年に内閣から認可された第一次都市計画事業に、御堂筋の拡幅工事や高速鉄道(地下鉄)の敷設が盛り込まれていた。創立趣意書によると「都市計画」は1919(大正8)年12月に突如発表されたという。

御堂筋の拡幅工事に伴って、大阪市からの要請があり、北側と西側の約590坪(約1,950㎡)の土地を市に無償で譲渡することになる。結果的に敷地面積は当初の半分近い約750坪(約2,479㎡)となった。ビルの事業計画は変更を余儀なくされる。メインストリートに面することで、都市計画を牽引し「大大阪」のシンボルとなるよう積極的に位置づけることになる。

創立趣意書では「所謂『都市計畫(けいかく)』に伴ひ、大大阪市の玄關(げんかん)たる梅田驛(えき)を起點(きてん)として、難波に通ずべき南北縱貫(じゅうかん)大廣路(おうろ)に面し、建築は耐震耐火且つ耐久的鐵骨鐵筋(てっこつてっきん)コンクリート造拾階(じゅっかい)の一大高層樓(こうそうろう)を現出せんとす」「特に内部の施設は歐米(おうべい)の粹(すい)を抜き、華を採り、依つて以つて、最も完備せる理想的大建築物として、大阪市の一大偉觀(いかん)たらしめん事を期す」としている。

当初4階の予定は地上9階・地下1階となり、総延建築面積は約6,000 坪(約19,835㎡)を確保した。1919(大正8)年に公布された市街地建築物法の高さ制限、いわゆる「百尺規制」に合わせて、軒高100尺(約31m)の高層ビルが計画されることになる。そして、堂島ビルヂングは平面から立体へと向かう「大大阪」の都市計画を建築面から担っていく。

大阪ビルディング建築敷地

大阪ビルディング建築敷地

『株式會社堂島ビルディング創立趣意書ほか』堂島ビルヂング、1920(大正9)年より。

美濃部政治郎『大阪市パノラマ地圖 』(部分)日下わらじ屋、1923(大正12)年

美濃部政治郎『大阪市パノラマ地圖 』(部分)日下わらじ屋、1923(大正12)年 
橋爪紳也コレクション蔵

堂島ビルヂング竣工年の制作であるが、1923(大正12)年12月28日印刷、1924(大正13)年1月5日発行であるため、堂島ビルヂングがしっかり描かれている。御堂筋の拡幅や地下鉄の開通はまだされていないが、堂島ビルヂングや1921(大正10)年5月に竣工した大阪市庁舎は、拡幅を前提にセットバックして建てられている。

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