堂ビルの経営した先駆的女性教育機関
堂ビルホテルと並び、ユニークな堂島ビルヂングの事業に堂ビル女学院を中心とした女性教育機関の運営がある。ホテルは竣工と同時に営業されたが、堂ビル女学院などの開設は少し後のことになる。折しも、昭和恐慌の影響で、広大な賃貸スペースを埋めることが難しくなったことも一因であろう。主に2階と3階、6階の空き室が割り当てられた。
橋本喜造自らが校主となり、校長には香港やアメリカで洋裁を学んだ平川芳太郎(ひらかわ よしたろう)を迎え、堂ビル洋裁学院を1930(昭和5)年2月に設立、4月に開校した。当初は本科、研究科で定員100名、2年後には本科、高等科、研究科の3科で定員400名、学級数は10になる。その後、最大約800名の生徒を擁したという。
当時、大阪市内にあった幾つかの洋裁学校の中では最大規模であり、「洋裁界の最高學園(がくえん)」と自称するほどになった。卒業生には、夭折した女優、原静枝(はら しずえ)や戦後、デザイナー・ジャーナリストとして活躍したマダム・マサコがいる。
さらに喜造は、堂ビル美容学院を1932(昭和7)年7月に設立、辻徳光(つじ とくみつ)を校長に迎え、堂ビル割烹学院を1934(昭和9)年3月に設立した。本科と家庭科の2科を創設し、一般家庭料理、西洋料理、中華料理、和洋菓子、飲料水、栄養学、食品学などを教えた。
並行して喜造は、女性の総合教育のための学校を構想する。堂ビル洋裁学院の姉妹校として、大阪堂ビル家庭専修学院を1933(昭和8)年に設立、2月に大阪府から認可を受け4月に開校する。翌1934(昭和9)年5月には、堂ビル女学院と改称した。
入学案内には、「女學校(じょがっこう)を出た丈だけでは現代婦人として、又一家の主婦として立つ上に不足を感ぜられる令嬢達に必要なる各種の教養を興あたへ『家庭にも社會(しゃかい)にも役立つ女性』、『良妻賢母たるべき女性』を目標に實際的(じつさいてき)作業修練を積ましむる學校(がっこう)」と記載されている(『堂ビル女學院入學案内』1935年)。洋裁家庭科、和裁家庭科、和洋實務(じつむ)科の3科に加えて、科目を自由に選択できる選科を創設した。修業期間は各科1年間(選科は6か月修業)、堂ビル洋裁学院と合せて、千名近い生徒数を数えるに至った。
校長は、堂ビルタイピスト学校の校長であった実業家で、法学士の西正次郎(喜造の娘婿)が担った。洋裁は平川、割烹は辻が担当し、その他に音楽、洋画、和裁、手芸、華道、茶道、書道、家事などに著名な講師を招聘している。
女学院は、片岡鉄兵(かたおか てっぺい)の小説『花嫁學校(がっこう)』の舞台となる。洋裁の講師であった岡島千代(おかじま ちよ)がモデルであったことを、一期生であった俳人、桂信子(かつら のぶこ)が『信子のなにわよもやま』(ブレーンセンター、2002年)で回顧している。「花嫁学校」のはしりであり、いわゆるモダンガールを多数輩出した。
1937(昭和12)年、平川が堂ビル洋裁学院の資産を継承して独立し、大阪府豊能郡庄内村大字洲到止(すどうし)184(現在の豊中市大島町3丁目辺り) に新校舎を建て移転した。1942(昭和17)年3月、堂ビル女学院は最後の卒業式を行う。4月、辻は堂ビル割烹学院を日本割烹学校と改称、北区に校舎を新築して移転した。その後、1959(昭和34)年、辻学園日本調理師学校(現・辻学園調理・製菓専門学校)を創立した。
堂島ビルヂングの学校経営は、女学校卒業後の教育のニーズを満たすものであり、戦後の女性教育と照らし合わせても自由で充実したカリキュラムであったことがうかがえる。また、タイピスト学校など、「花嫁学校」に留まらない「職業婦人」の養成も先駆的であったといえるだろう。
堂島ビルヂング外観
㈱堂島ビルヂング蔵
1942年(昭和17)年頃撮影。南壁面に堂ビル女学院、割烹学院の看板が付けられている。1942(昭和17)年10月、堂ビル女学院は、堂島女子服装学校に改称申請しているが、閉校となった年月は定かではない。洋裁学院は1937(昭和12)年に移転したので写真から看板が消されている。洋裁学院には田辺聖子の2人の叔母も通ったという。
『堂ビル女學院入學案内』1935(昭和10)年
㈱堂島ビルヂング蔵
『堂ビル女學院學測』1935(昭和10)年
㈱堂島ビルヂング蔵
『芳彩』(表紙)創刊・2・4・5月号、堂ビル洋裁學院、1937(昭和12)年
橋爪紳也コレクション蔵
堂ビル洋裁学院、堂ビル女学院の在校生、卒業生などを対象に、流行のデザインや実践的な和洋裁の記事を紹介する会員制の機関誌。
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