第2章|昭和の改修時代

昭和の改修

時代に合わせた先駆的なリノベーション

堂島ビルヂングは創立40周年を迎えたのを機に、大規模な改修工事を実施する。1959(昭和34)年6月から工事に着手し、15か月を要して1960(昭和35)年9月に完了する。外装の改修は、野村建設工業株式会社が担当した。

堂島ビルヂングは1923(大正12)年の竣工以降、第二次世界大戦の金属供出や空襲などを経て、長年の使用の結果、外装、内装、設備などが老朽化していた。特に外壁のタイルには数多くの傷みが見られた。改修では、タイルの張り替えに加え、3つの小窓を1つの大きな窓に改修し、採光の面にも力点が置かれた。また、廊下部分も改修、冷房設備も新設し、快適な労働環境を整備した。

この頃、御堂筋沿いには最新の設備を備えたオフィスビルも多くなり、堂島ビルヂングは優位性が保てなくなっていた。そのため設備や内装に重点を置き、「変えられる箇所はすべて改造する」という意気込みであった。この点は、「輕快(けいかい)ナル『ビジネスルーム』ノ提供ヲ主眼」と建築概要に記載した堂島ビルヂングの原点に沿う方針といえる。

大正時代に竣工した多くのビルの老朽化は進んでいたが、エアコンなどの設備の刷新には、スペースが十分取れないなどさまざまな課題があった。改修工事は難しいが、改築するならば資金調達やテナントの移転補償などの負担が大きく、迷っているビル所有者が多かったという。そんな中、堂島ビルヂングは、改修の成功例となった。

大阪工業大学教授、大阪ビルディング協会参与(当時)であった小林清周(こばやし せいしゅう)は、「設備の改修に当たって、受変電室および機械室の狭隘を訴えるのは古いビルの共通の悩みで簡単には解決できない事項であります。このようにエアコンのみならず設備関係の改修に重点がおかれ、内外装には手が廻りかねるというのが実情といえましょう。しかし、堂ビルだけは設備と内外装とも見事に更新(モダニゼーション)されました。構造の問題等、色々ご苦労もあったようでありますが、当時の改築単価の3分の1程度で全面的に改修されたことは素晴らしく成功した例であるといえましょう」と述べている(『社団法人大阪ビルディング協会50年のあゆみ』大阪ビルディング協会、1981年)。

改修においても、堂島ビルヂングは時代を先んじていたといえるだろう。

改修当時の堂島ビルヂングには、通信社、商社、銀行、メーカーなど150社にのぼるテナントがあり、9階にはビル竣工以来の入居者である社交倶楽部の清交社があった。清交社は、交詢社と並び称されるほどの倶楽部となっていた。清交社は会員が1,500人を超え、収容能力に対して数が増加したため入会の選考も厳しくなっていた。会員には、堀田庄三(ほった しょうぞう)(住友銀行頭取)、渡辺忠雄(わたなべ ただお)(三和銀行会長)、太田垣士郎(おおたがき しろう)(関西電力会長)、芦原義重(あしはら よししげ)(関西電力社長)、松原与三松(まつばら よそまつ)(日立造船社長)、そして後に理事長となる井口竹次郎(いぐち たけじろう)(大阪ガス会長)など、著名な財界人の名が並ぶ(役職は当時)。

堂島ビルヂングは標準タイプで15坪(約50㎡)と部屋が細かく仕切られていた。しかし、テナントの中には、それでは手狭なため拡張を要望するところも多く、移転するケースも増えてきていた。ただ、「ジャパン 堂ビル」で郵便物が届くほどの信用があったため、東洋紡の関係企業のように残ったテナントも多い。

改修の仕上げは、新社長室の工事であった。そこに橋本喜造初代社長、二代目喜久雄社長の写真が飾られた。そして、昭和の改修工事のすべてが完成する。

THE DOJIMA BUILDING. OSAKA, JAPAN

THE DOJIMA BUILDING. OSAKA, JAPAN

1962(昭和37)年撮影。昭和の改修竣工記念ポストカード。客用エレベーターは6基だったが、1954(昭和29)年と1955(昭和30)年の2回にわたり1基の収容人員を増加して4基に変更している。

昭和の改修竣工記念ポストカード入れ

昭和の改修竣工記念ポストカード入れ

堂島ビルヂング周辺の航空写真。1959(昭和34)年頃撮影。

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