街のようなビル、家族のような会社
堂島ビルヂングの歴史は人の歴史でもある。さまざまなテナントが入居し、また転居していった。堂島ビルヂングは、竣工時よりビル内で豊富な商品やサービスが揃い、ひとつの街のような機能を持っていたが、戦後においてもその名残が見られる。
『大阪の幹線ガイドと記録 1974年1月の御堂筋』(女性ニッポン新聞社、1974年)には当時のテナントの一覧が載っており、多様な業態のテナントが時代の断面を映し出している。清交社、堂島ファーマシー(旧・堂島大薬房)、戸張柔道場(旧・戸張ほねつぎ療院)、三井銀行、森永製菓、郵便局など、竣工以来のテナントも幾つか残っている。森永ソーダファウンテンとして営業していた森永製菓は、「大正12年8月創業 高級化された軽食喫茶 森永キャンデーストア堂島店」と記載されている。
また、堂島ビルヂングの社員もビル内で大勢働いていた。現在のようなアウトソーシングは存在しないため、ビルの運営はすべて自社で直接雇用した社員によって行われていた。1950年代は、事務職のみならず蛇腹の扉を操作するエレベーターガール、内線に電話を繋ぐ電話交換手、煙草の売店員、保安係、掃除婦、営繕の電気係、ボイラーマン、大工などすべてが堂島ビルヂングの社員であった。総勢50~60人の社員を抱えていたという。創立40周年と改修工事の完成を記念して、社員旅行に行った際に撮影された写真や制作された記録映画からは、家族のような親密な様子がうかがえる。
天神祭の日は午後から休みとなり、屋上でビアガーデンをしながら、船渡御(ふなとぎょ)を見物して楽しんだという。
天神祭の船渡御は、明治以降、戎島付近が居留地になったため、遷座した松島の御旅所まで航行していたが、戦争の影響で1938(昭和13)年に中止された。戦後、間もない1949(昭和24)年に再開したが、大阪市西部一帯の地盤沈下のために水位が上がっており、橋の下を神輿が通れず、翌年の1950(昭和25)年に再び中止となった。1953(昭和28)年に大川を上流に遡って航行する現在のコースになった。船渡御が眼下を通る戦前の堂島ビルヂングは、最高の観覧場所であっただろう。
また戦後復興期までは、女子社員は中之島の土手で昼休みを過ごすこともあったという。
1950(昭和25)年のジェーン台風の被害を受け、大阪市西部一帯の防潮堤工事が行われた。1961(昭和36)年の第二室戸台風は大阪市内中心部まで被害をもたらしたため、堂島川や土佐堀川も1962(昭和37)年から1964(昭和39)年にかけて大規模な防潮堤工事が行われた。また、南向かいの川沿いにビルが建ち並んだり、1964(昭和39)年以降、阪神高速道路が堂島川の上に建設されたりしたため、堂島ビルヂングが堂島川畔にあるという印象が薄くなってしまった。
かつては中之島や堂島川の船上から堂島ビルヂングはよく見え、写真や絵画も数多く描かれているが、高度経済成長期を迎えてその面影はなくなっていく。昭和30年代から40年代は、堂島ビルヂングを取り巻く風景や、働く人々の環境も大きく変化する潮目になったようだ。
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