序章|橋本喜造と橋本汽船

神戸への移転と橋本汽船の創業

神戸から大阪、そして新たな事業の開始

1916(大正5)年、橋本喜造は神戸に移転し、神戸市神戸区(現・中央区)海岸通2丁目に橋本商店船舶部を新装開店する。1917(大正6)年、合名会社竹中工務店の施工で鉄筋コンクリート造の自社ビルを建設する(後の橋本汽船ビル)。設計は藤井厚二(ふじい こうじ)(後の京都帝国大学建築学科教授)が担当した。アメリカ流のオフィスビルの普及を見越したテストケースでもあり、この頃、堂島ビルヂングに結実する高層ビルの計画を立てる。同じく1917(大正6)年、神戸市の苅藻島(かるもじま)に橋本造船所を建設、須磨丸、松浦丸、佐世保丸、喜勢丸、銅山丸、鐵山丸等を建造した。1918(大正7)年、喜造は資本金1,500万円で橋本汽船株式会社を設立し、橋本商船船舶部の業務を引き継いだ。

1919(大正8)年、堂島川畔の大江橋北詰周辺の約1,347坪(約4,453㎡)を鈴木商店などから取得する。1920(大正9)年に株式会社堂島ビルディング(1922年に堂島ビルヂングに改称)を設立、同年に竣工した北浜の藤本ビルブローカー銀行(現・大和証券)本店ビル内に事務所を置いた。施工は竹中工務店、設計は島本四郎(しまもと しろう)(後の竹中工務店東京支店初代設計部長)が担当している。1921(大正10)年には佐世保汽船株式会社を設立、小型客船を運行し長崎、島原方面に定期航路を開く。1923(大正12)年には、イギリスのBI汽船株式会社より、龍神丸、龍王丸、龍威丸、沙河丸、遼河丸等を購入し、龍王汽船株式会社を設立した。同年、橋本汽船海運仲立業部を立ち上げ、海運仲立業に進出する。6月には当時最大規模の近代高層ビル、堂島ビルヂングを建設し、7月から営業を開始する。

昭和初期には世界恐慌のあおりをうけ、45%出資した佐世保商業銀行(後に合併して親和銀行になる)の株を鈴木商店に売却している。1933(昭和8)年には、新興商船株式会社を設立、新興丸(9,413トン、ディーゼル機関船)を建造する。その後、川崎汽船株式会社と運航契約を結び、川崎汽船、川崎造船所、国際汽船の新航路「Kライン」に参加する。同船は逓信省告示の船舶改善助成施設に基づく優秀船となり、ニューヨーク定期航路の花形になる。以後流行する「新興船型」の第一船となった。1935(昭和10)年には、雲仙観光ホテルを設立する。

1939(昭和14)年3月調べでは、橋本汽船が所有していた船舶は10,000トン以上が2隻、9,000トン以上が4隻、7,000トン以上が6隻、5,000トン以上が9隻、3,000トン以上が9隻、2,000トン以上が13隻、1,000トン以下が11隻の合計54隻に上る。しかし、第二次世界大戦中・直後に新興丸、龍神丸、鐵山丸など合計9隻を喪失する。また、神戸市にあった本宅も焼失するが、借入金や所有船の担保設定もなく経営は優良であったため戦後も存続した。

多くの事業をする一方で、喜造は佐世保市議、長崎県議を経て、1917(大正6)年に衆議院選挙に立候補、3回連続当選、憲政会総務となり、政治家としての顔も持っていた。さらに、寄付活動にも熱心であった。1919(大正8)年、長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の前身)に研究館を新築、寄贈する。この建物は、1972(昭和47)年、同窓会組織「瓊林会」の寄付による改修を経て「瓊林会館」となり、2007(平成19)年には、登録有形文化財に登録され長崎大学のシンボルになっている。また、長崎医科大学にはラジウムの購入資金として3万円を寄付している。ラジウムは教員や学生から喜ばれ、多くの患者の治療に貢献したという。

喜造は政商と評されることもあるが、視野が広く先見の明があった。そして、女性教育機関から若手実業家の社交倶楽部まで、若い才能が集う近代ビルを経営する十分な度量があったといえるだろう。

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