第3章|平成の改修時代

阪神・淡路大震災と平成の改修

原点回帰とさらなる進化

1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が起き、大阪でもさまざまな被害があった。堂島ビルヂングは躯体には大きな損傷はなかったが、多くのガラス窓が落下・破損し、それだけで1億円以上の損害となった。早朝のために幸いけが人はいなかったが、昭和の改修時に3つの小窓を大きな横連装窓として、開閉できない「はめ殺し窓」と「引違い窓」で構成しており、長年の劣化もありパテの強度がもたなかったのである。

設備も古くなっており、近隣のビルと比較して外観・設備ともに見劣りするようになっていた。特に館内一体型の中央空調方式であったため、終業時刻になると止まってしまい、夜間の業務には課題があった。テナントの快適性を保つためにも新たな改修工事が必要となっていた。

そこで橋本昭一は再び大規模改修を決意する。第二次世界大戦時の供出や被害が、改修の時期を早めたように、阪神・淡路大震災は、改修の大きなきっかけになったといえる。

昭和の改修に引き続いて、野村建設工業株式会社が設計・施工を担当した。1932(昭和7)年に竣工した日清生命館の意匠を継承し、1994(平成6)年に高層化した東京生命大手町野村ビル(現・大手町野村ビル)をモデルケースとして、ガラス・カーテンウォールと、低層階部にクラシックな意匠を施す案が提案された。

以後、昭一と野村建設工業は、ネオ・クラシックをコンセプトに、クレイモデルを作るなど綿密に打ち合わせを行う。竣工当時の垂直軸を復活させ、低層階・最上層階・エントランス部分には豪華なデザインを採用し、総額40億円にのぼる大改修工事を実施する。

1996(平成8)年6月から実施設計が始まり、1997(平成9)年4月から着工する。テナントが入居する中で外壁や空調を変更する大工事であった。土日や夜間に集中して作業が行われ、深夜2時頃から御堂筋の3車線を借り、150トンレッカーにて多数の機器や資材が屋上に運び込まれた。

そして、外壁は不二サッシ製のガラス・カーテンウォール、大塚オーミ陶業製の揺れを吸収する固定技術を駆使したテラコッタや陶板を採用した。それらをビルの構造体のコンクリート部分に打ち込むにあたり、竣工当時の平面図を頼りに全館を調査して耐震性を確保した。また、高負荷のかかっている極脆性柱をなくすために、全体の負荷バランスの調整が行われた。

テナントが入居しながらの工事を実施したため、躯体に関して大規模な耐震補強はされていないが、コンクリートの調査を行った際、川砂使用のため鉄筋の腐食も少なく強度が高い状態であると判明し、建設時の施工技術の精度が改めて証明された。

また、竣工当時から残る金庫室を一部解体してパイプスペースが拡張された。空調は24時間対応の個別空調に切り替えられ、省エネルギー対応、換気のための外気の確保も新たに行われた。さらに、OA対応の光ファイバー設備が完備された。Windows95の発売もあり、この時期、急速にインターネットとコンピューターによるオフィス業務革命が起こっている。堂島ビルヂングは、再び、時代の変化に先んじて、新たな適応を行ったといえる。そして、1999(平成11)年12月に竣工し、2000(平成12)年12月に完成式典が行われた。

2回目の大改修工事を終え、都心部の風景に溶け込む古くて「新しい」ビルとなった。現在では堂島ビルヂングが、大阪市内でも貴重な現存する戦前のモダンビルであることを知っている人は少ないだろう。ただし、近づけば多くのこだわりや歴史がうかがえる。

新たにカンパニーカラーに深い緑、文様に銀杏が採用され、アルミダイキャストで作られた階段手摺や欄間などのデザインに散りばめられている。エントランス部分には大理石、低層階の外壁には蛇紋石と花崗岩、中上層階にはテラコッタなどが張られた。随所に豊かな表情と抑揚があり、歴史あるビルの風格を称えている。内装も天井が外され、太い柱や梁に建設当初からの躯体が垣間見られる。厚い躯体と、時代のニーズに応じて変化する外観や設備は、先取りの遺伝子を引き継いだビル活用のひとつの理想形といえる。

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