第1章|大大阪時代

施工・設備

最新の構造と設備を実現した設計者と職人の技の結晶

株式会社堂島ビルヂングは、1921(大正10)年2月、合名会社竹中工務店と工費230万円で建設工事契約を締結、同年9月に着工する。前年の12月には、竹中工務店の大阪出張所が敷地内に置かれた。

敷地は堂島川と曽根崎川(蜆川)跡地の間にある軟弱地盤である。そのため2,200本に及ぶ木杭を基礎にし、コンクリートには1,800立坪に及ぶ大量の川砂が使われた。川砂は塩分がなく強度が高い。ミキサー車やポンプ車はない時代である。現場で混ぜ合わせ、上まで吊り上げ、各部分に管で流し込む作業が繰り返された。

壁面には煉瓦が厚く積まれた。外側に象牙色の煉瓦が張られ、内側は漆喰で仕上げられた。その他、ほとんどが手作業のため、多くの業者が参画し、延べ12万8千人の職人が動員された。

また、堂島ビルヂングの規模のビルを作るためには、国産の鉄材では間に合わない。しかし、輸入が多くなるとコスト高になった。そのため当時の高層ビルの主な構造体で、当初の仕様だった鉄骨を使わず、鉄筋を使って溶接を工夫するなど試行錯誤をしたようである。

さらに、エレベーターを中心に最新の設備が装備された。後の堂島ビルヂング取締役となる山脇友三郎(やまわき ともさぶろう)は、エレベーターの研究のために欧米を視察している。そして、まだ日本法人のなかったオーチス製のエレベーター7基が導入された。地上9階・地下1階の屋上階に至るエレベーターは大阪初となった。1921(大正10)年12月には、堂島ビルヂングの設備設計担当となる瀬戸強三郎が竹中工務店に採用されている。

主な設備として、地下1階に機関室を設け全館に通じる蒸気暖房装置、主要室に扇風機を設置した。各階に湯沸場を設け、自動瓦斯湯沸器を設置、その傍らにダストシュートが取り付けられ、投入すると地下ゴミ室に運ばれる仕組みになっていた。さらに、各階には1階の郵便局に直通するメールシュートや金庫室、貨物用の昇降機2基を設置した。

ガス管や水道管、電気配線のパイプスペースが確保された。電話は当初、加入回線600本・私設電話500台が設置された。衛生面でも移動式バキュームクリーナーや各階に水洗の和洋式トイレが設けられ、地下1階に沈殿槽による浄化装置が付けられた。ホテルには和洋の浴室が装備された。建設前、竹中藤右衛門はホテルの設備に予算がかかるため、貸事務所専用にするよう提言しているが、橋本喜造は初期構想を貫徹した。

また、防火設備として、1階商店の出入口にはシャッター、窓にはスチールサッシ、各階の広間には防火扉が設けられ、各階にホース付き防火栓が設置された。戦時中、周辺住民の間で、空襲の際は堂島ビルヂングに逃げ込めと言われていたという。

国内では前例のない大工事でありながら、施工において別段の難問はなかったという。ただし、敷地内にあった進藤商店の立退問題がこじれ、その部分だけを避けて工事が進められた。1922(大正11)年2月、大阪駅前通りに2階建て、鉄筋コンクリート造の新築建物を提供することで解決した。

エレベーターを収めた塔屋は、府の完工検査の最終段階で塔屋の幅が制限の6mを越えているということで当初は許可が下りず、外壁と屋根を幅0.3mほど削り一時的にガラスを入れるというエピソードが残っている。

1923(大正12)年、20か月(建築概要による)の工数をかけて、6月1日に竣工、7月21日に開館式が行われた。

翌々月の9月1日、関東大震災が起こり、多くの建築が倒壊し大規模火災が発生した。堂島ビルヂングの上階でも揺れが確認されたほどであった。被災地では鉄筋コンクリート造の方が鉄骨造よりも被害が少なかったため、その後、鉄筋コンクリート造がビル建設の主流になっていく。最新の設備を採用し、構造的にも優れた堂島ビルヂングは、時代の潮流を先取りしたビルディングであった。

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