堂島ビルヂング100年史

監修・著 橋爪紳也

編集・執筆 三木学

編集協力・図版撮影 加藤文崇

書籍デザイン タナカタツヤ

発行人 橋本啓子

発行 株式会社堂島ビルヂング

●発行者の許可なく本サイトの一部もしくは全部を複製、転載することはご遠慮下さい。

●図版は、堂島ビルヂング所蔵分に加え、主に橋爪紳也コレクション、株式会社竹中工務店、株式会社クラブコスメチックス、一般社団法人清交社からお借りしました。それぞれ図版をクリックして拡大すれば、所蔵先を明記しております。

●書籍版に掲載した図版の中で、図書館・美術館・新聞社等からお借りしている分に関しては、著作権の観点からサイト版では未掲載とさせていただきました。予めご了承下さい。

凡例

●文献名及び引用文は旧字体を使用し難字はルビを振った。ただし、ソフトウェアで文字変換ができない一部の漢字は新字体にした。

借用した図版は、所蔵している場合は「蔵」、画像提供の場合は「提供」とした。

『』は出版物名、《》は作品名に使用した。

読みが必要と思われる人物名のルビは初出のみとした。

口絵

作家紹介

三木俊二 (みき・しゅんじ、1906–1987)

兵庫県生まれ。主に関西を中心に活躍した洋画家。裸婦を中心に風景、静物などを描いた。師は画家・美術評論家の斎藤与里。戦前は官展に出品し入選。戦後、写実洋画の公募美術団体の一水会、関西を中心とした研水会に所属。新写実会を主宰をした。


勝又公仁彦(かつまた・くにひこ)

静岡県生まれ。美術家・写真家。都市の生成・変化をモチーフにした作品を数多く制作している。2005(平成17)年、日本写真協会新人賞受賞。2013(平成25)年、「都市の無意識」展(東京国立近代美術館)出品など個展グループ展多数。

 

堂島ビルヂングの100年に寄せて

橋爪 紳也

大大阪の時代、ビルヂングの時代

1920 年代、大阪は東洋を代表する近代都市に成長する。市域の拡張を果たしたことで、大阪は東京市を抜き、世界で5位、6位の人口規模を争う大都市となった。以降、市民はみずからが暮らす都会を「大大阪」と呼び、その繁栄を「東洋一の商工業地」と讃えた。

都市計画のもとに都市基盤の改良がすすめられる。そのシンボルとなる事業が、欧米の大都会に負けない美観を有するメインストリート、御堂筋の整備である。

いっぽうで、大阪には「水の都」の愛称があった。堂島川と土佐堀川にはさまれた中之島の中央部は、日本銀行、大阪市役所、大阪府立中之島図書館、大阪市中央公会堂などの公共施設や文化施設が並び、シビックセンターとして機能する。対して島の東部には、パリを想起させる美しい公園や橋梁群が整備され、市民の憩いの場に変容した。

御堂筋と中之島は、大阪の経済的な繁栄と美観の象徴である。1923(大正12)年7月、双方が交差する場所、すなわち大江橋のたもとに、大阪で最も高層のビルディングが開館する。それが堂島ビルヂングである。

橋本汽船を経営した橋本喜造が、貨物集散場のあった堂島川畔の用地を買収したのは1917(大正6)年のことだ。「陸の上に沈まぬ船」であるビルディングを建設することを構想、当初は4階建ての予定であった。

しかし大阪市の都市計画に応じて、御堂筋の拡幅事業の用地に西側と北側の土地を無償で市に譲った結果、狭くなった敷地を有効に利用するべく、前例のない9階建てのビルディング建設案が具体化する。建設工事を請け負った竹中工務店としても、この規模のビル建設は当時、まだ経験がなかった。担当者を米国に派遣させ、最新の工法や設備を学ばせた。

関係者は「大阪ビルディング」と命名しようとした。しかし中之島ですすめられていた大阪商船の本社ビルに、その名前を譲る。代替として歴史ある地名である「堂島」を建物の名称に掲げることになった。新設されたビル運営会社の創立趣意書には「…内部の施設は欧米の粋を抜き、華を採り、依つて以つて、最も完備せる理想的大建築として、大阪市の一大偉観たらしめん事を期す」とある。

堂島ビルヂングは、大阪におけるビルディング建設ブームに先鞭をつけた。開館直前の7月11日、『大阪毎日新聞』は堂島ビルヂングを紹介、「暗がりの家に納まり返って済ましていた大阪人の建築に対する考へも時代の流れと共に改まり行き平面から立体へと大大阪の変化は著しい点」と讃えている。「大大阪の時代」は都市が立体的に発展する「ビルヂングの時代」でもあった。

文明の小都市

堂島ビルヂングには、さまざまなテナントが入居した。開館時には、地階に大食堂、理髪店、クリーニング店、1階に三井銀行、山口銀行、大阪貯蓄銀行などの金融機関、堂島大薬房(後の堂島ファーマシー)、貴金属を扱った丹金、東京電気、森永ソーダファウンテンなどの店舗があった。2階を堂ビル百貨店、5階を中山太陽堂、9階を大阪毎日新聞社の高石真五郎(たかいし しんごろう)たちが創設した社交クラブ「清交社」が使用した。

また7階・8階および屋上庭園は、ビル会社が堂ビルホテルを直営した。商用で内外から来阪する人を対象としたのだろう、「…我邦唯一のコンマーシャルホテルとして軽便と実用を主とし…」と建築概要に記されている。

1924(大正13)年5月31日、『大阪時事新報』に、堂島ビルヂングの社債募集告知が掲載された。そこに「東に丸ビル、西に堂ビルあり、堂島ビルヂングは、大阪北部商業地域の中心地大江橋々畔にあり工費二百四拾余万円敷地五百五十余坪、建坪五千八百九拾参坪、貸室数弐百七拾余あり、採光通風給湯水電灯電話等完全なる設備を有し現に三井、山口、大阪貯蓄の三銀行堂島出張所を初め貿易会社、建築会社、信託会社雑誌業及び百貨店、堂島ホテル清交社等、凡有営業を一堂の下に集め宛然一個の文明小都市の観を呈す」と記載する。

東京の「丸ビル」と比肩するとみずから称し、ビル内に多様な機能が集積するさまを「一個の文明小都市」と表現する。ビルはまさに、同時代の都市の縮図であった。

昭和初期に、堂ビルホテルが配布した広告では、ホテル滞在者以外も、商談や休憩、食事、宴会や結婚式に利用して欲しいと訴求している。加えて客室や食堂に「ラヂオの設備が御座います」と特記する。ラジオ放送が始まって間がなく、まだ各家庭に受信機が充分に普及していなかった時代、最先端の設備を備えていることを強調していたわけだ。

ホテルだけではない。ビル会社は、職業婦人の教育に資するべく堂ビル洋裁学院、堂ビルタイピスト学校、堂ビル女学院、堂ビル割烹学院などを運営した。社会で活躍する女性を支援することを意識したビル経営は、当時としては先端をゆくものであった。

景観と眺望

抜きん出て高くそびえる堂島ビルヂングは、梅田から大江橋方向を見通す御堂筋沿道の景観にあって、屋上に据えられた仁丹の広告塔とともに、アイストップという役割を担っていた。また中之島を撮影した観光絵葉書などにも、その外観がしばしば登場する。また煌々と明かりを灯す夜景の美しさも注目された。真新しいビルディングは、大阪名所のひとつに数えられた。

1936(昭和11)年に出版された『大阪案内』(大阪之商品編集部)では、堂島の風光に触れつつ、次のように記している。

「むしろそこにそゝり立つ大ビルディングが新名物で、白亜十一層の堂ビルを知らぬ者はあるまい。大江橋の北詰に聳え、影を堂島川に映してゐる。これは大阪における大ビルデイングの先駆として、大正の末にできたもので、堂ビル・ホテル、洋裁学院がある外、著名なオフィス数十を擁し、薬店、医院、美粧院、理髪店、和洋食堂など、日常生活に必要な商品、諸機関が備はり、大阪紳士の交遊倶楽部として、清交社もその十階に設けてある。ホテルは、百人以上の大宴会室もあれば神前結婚式場もあって、文化人には重宝なところ」

かつて近松門左衛門の作品『心中天の網島』などで伝えられた「蜆川(しじみがわ)」は、明治末のいわゆる「北の大火」の瓦礫で埋められてしまった。代わって名所となったのが堂島ビルヂングであるというわけだ。開館から10年以上を経過しても、「新名物」と人々に認知されていたことが分かる。

堂島ビルヂングは、界隈のランドマークであった。それは同時に、高層階からの絶好の眺めを約束した。実際、堂ビルホテルは、「大阪驛に近く商業中心地にあり 見晴の良い弊ホテルを御利用願ます」と広告で訴求、屋上庭園からの眺望の良さを売り物とした。

大阪の歴史とともに

堂島ビルヂングは、オフィスビルの黎明期にあって、大阪を代表する最新の建物であった。また近代的な高層建築の嚆矢として、都市の「立体化」を牽引した。その偉容と眺望から、堂島の「名所」「名物」とうたわれた。

戦後、とりわけ高度経済成長期以降、大阪にあっても超高層ビルが林立するようになる。堂島ビルヂングがかつて提供した卓越した景観と眺望はほかに譲った。しかし、躯体はそのままに時機をみた改修を重ねながら、大正、昭和、平成、令和の時代を通して現在に至る。

さらに開館時は、ビルそのものが先端をゆく「小都市」という機能を担った。近年は、スタートアップ企業なども入居する。歴史的建造物であるが、その内実は古びたものではない。今日にあっても現役の「生きた建築」として利用されているわけだ。

堂島ビルヂングは、堂島というビジネスセンターの変貌を、そして大阪という都心の発展を見守ってきた。ここで働き、ここで憩いの時間を過ごした人々の記憶を重ねながら、ビルは新たな時間を刻みつつある。

はしづめ・しんや
大阪府立大学研究推進機構特別教授
大阪府立大学観光産業戦略研究所長・工学博士

堂島ビルヂングの遠望

『大大阪橋梁選集』創生社出版部、1929(昭和4)年より。