第2章|昭和の改修時代

戦後の混乱期から復興へ

接収を免れた希少なビル

空襲によって大阪市の約30%が焼失するという中で、耐火性の高い多くの近代建築は焼失を免れた。堂島ビルヂングも、焼夷弾を多数被弾し、屋上にあった建屋が焼失したり、ガラスが割れたりしたが、それ以外の被害は軽微であった。

連合国軍の大阪への進駐は、1945(昭和20)年9月27日に始まる。最初は米軍第6軍第1軍団第98師団であったが、翌年には第25師団が駐留、市内にある主要な建物は順に接収された。例を挙げると、朝日ビルディング、伊藤萬ビル、石原産業ビル、大阪倶楽部、大阪瓦斯ビルヂング、新大阪ホテル、住友ビルディング、日本生命ビル、綿業会館、安田ビルなど、大規模なビルはほとんど接収されたといってもよい。この接収によって大阪のビル業界は半ば麻痺状態となり、その状況は1952(昭和27)年4月のサンフランシスコ講和条約の発効まで続くことになる。

堂島ビルヂングも、規模や設備、保存状態からすれば、当然接収の対象であった。実際、1945(昭和20)年10月1日を期して、堂島ビルヂングに入居していた清交社に、米軍将校倶楽部として接収するという指令が出た。大阪倶楽部や中央電気倶楽部、 日本綿業倶楽部など、その他の倶楽部の会館は、戦時中は日本の陸海軍に徴用されたり、戦災にあったり、戦後は進駐軍に接収されるなどした。戦後も日本人の倶楽部として会館と機能を維持しているのは清交社ぐらいとなっていた。

清交社初代理事長、毎日新聞社社長(当時)の高石真五郎は、戦前より海外に特派員として派遣されており、国際的な交流経験と外交能力を持っていた。そのため高石は、進駐軍と交渉の末、接収を免れることに成功する。

高石の回顧録によると「この荒廃した大阪に、これから復興を図ろうとする大阪の指導者たちのため、一つぐらいの日本人のクラブは是非残して欲しい。それに、清交社は自分が創立し、二十年間にわたって面倒を見て来た自由主義的な色彩のつよいクラブである。ここは自分が理事長をしている関係もあって、毎日新聞社をはじめ、大阪の各新聞社がよく集まるところである」と主張したという(『高石さん』高石真五郎伝記刊行会、1969年)。

高石らの尽力により接収は免れたものの、堂島ビルヂングは、戦前の金属供出のためエレベーター、ボイラー、暖房器具などはすでになくなっており、躯体を残すのみで、大大阪時代に誇った居住性と機能性は失われていた。

また、テナント管理の能力も低下しており、テナントのまた貸し、賃借権の転売、不法占拠などが横行し、収拾がつかない状態になっていた。賃貸借契約管理ができず、当時300程の正常テナント数の倍以上の占拠者にあふれており、闇市に例えて、「堂ビルではなく、闇ビルだ」と言われたという。

闇市は、戦後混乱期に、大阪では梅田、難波、天王寺、鶴橋など、ターミナル駅周辺に広がっていた。当時、生活必需品は未だ統制下にあり、配給量が十分ではなかったため、公定価格の数倍で取引されている闇市を一般の人々も利用せざるを得なかった。そこでは不法占拠や不法建築、さらに転売などが横行していた。

堂島ビルヂングでも不法占拠の対策が求められた。建物と設備の修復・復旧と同時に、契約に基づいた管理の徹底が必要となった。ビル経営を正常化することが、堂島ビルヂングの戦後復興であった。

100年史TOPへ