第1章|大大阪時代

大大阪の都市計画と堂島ビルヂング

近代都市の成長を見つめたビル

堂島ビルヂングは、御堂筋の拡幅工事に伴う敷地面積の大幅な縮小も含めて、大大阪時代の大阪の都市計画に大きな影響を受けた建築といえる。

堂島ビルヂングの竣工年と同じ1923(大正12)年、助役から第7代大阪市長に就任した關 一は、約11年間大阪市政や都市計画を牽引した。1925(大正14)年、大阪市の第二次市域拡張を実施し、日本最大の人口を誇る「大大阪」が誕生する。

大阪市は急速に工業化し、大量に人口が流入した都心部の住環境や交通網の悪化を改良するため、關が助役時代の1917(大正6)年に都市改良計画調査会を、1918(大正7)年に市区改正部を設置して、1919(大正8)年に大阪市区改正設計をとりまとめる。

1919(大正8)年には、都市計画法と市街地建築物法が公布、1920(大正9)年に六大都市に施行された。高さ制限100尺(約31m)の「百尺規制」などがここに定められる。それを受けて大阪市も都市計画を立案する。1921(大正10)年、第一次都市計画事業が内閣から認可され、さらに、1924(大正13)年、関東大震災を機に拡大変更した、更正第一次都市計画事業が決定される。

そこに、42路線の街路の新設・拡張、82の橋梁を耐震耐火構造に改築する案が盛り込まれた。その中に大阪の都心を南北に貫通する「廣路」の建設事業が位置づけられた。それが後の御堂筋となる。

幅24間(約43.6m)という広幅員の道路をどこに通すかが課題となったが、淀屋橋から北が幅12間(約21.8m)の市電通りであったことから、これを南進させて難波までの道を拡幅することに決まった。御堂筋の工事は、1926(大正15)年10月、阪急梅田駅前から大江橋北詰までが、先行して着工される。

また、市内の交通問題を解決するべく高速鉄道が計画され、高架と地下鉄が比較検討されたが、御堂筋線を含む4路線、総延長54.48kmの地下鉄計画が、1926(大正15)年3月に内閣から認可を受ける。

御堂筋の拡幅と地下鉄御堂筋線の工事は、設計前から竣工後にわたって堂島ビルヂングに多大な影響を与えた。堂島ビルヂングは、御堂筋の拡幅のために敷地の約半分を大阪市に無償で譲渡した。大幅に狭くなった敷地で建坪数を確保するため、当初の計画であった4階から9階に規模を拡大し、「百尺規制」の上限まで高層化することになった。そして、結果的にメインストリート沿いの最初の近代的な高層ビルとなった。

ただし、工事のためビル前面の道路は材料・機器の置き場となり、ビルの出入りの障害となった。工事現場周辺の騒音被害も大きかったという。

さらに、地下鉄工事が始まって1年余りたった1931(昭和6)年4月、淀屋橋北詰の土佐堀締め切り工事現場で13m掘った底から湧水が噴き出す。水道管も破壊され、川の水と水道水があふれ出して、市電軌道の地面も崩れる大事故になった。また、地下水を汲み上げたことで沈下した建物には補償金が支払われたという。

1933(昭和8)年には地下鉄梅田―心斎橋間が開通する。1924(大正13)年にデザインが公募された大江橋と淀屋橋も、セーヌ川を参考にした鉄筋コンクリート造のアーチ橋に決まり、1935(昭和10)年に完成した。しかし、御堂筋は用地買収・立ち退き・地上物の移転に時間がかかり、1937(昭和12)年5月の完成まで10年余りを要した。同年、日中戦争が勃発し、大大阪時代は終わりを告げる。堂島ビルヂングの歴史は、「大大阪」の都市計画とともに始まり、その建設を中心部において見守ってきたといえるだろう。

大阪中之島概觀

大阪中之島概觀

(中之島の中央部を西方より東方に向つて撮せるもの、最下は大阪朝日新聞社、最上は府立圖書館、その前後左右に市廰舎、日本銀行をはじめ堂島、住友、大同、江商等の各ビルディングあり) 『大阪行幸記念空中寫眞帖』(『周刊朝日』臨時增刊)朝日新聞社、1929(昭和4)年より。

大阪御堂筋新道路

大阪御堂筋新道路

(梅田新道路以南淀屋橋北御堂間にて右上に見ゆるは市廰舎) 『大阪行幸記念空中寫眞帖』(『周刊朝日』臨時增刊)朝日新聞社、1929(昭和4)年より。

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