序章|橋本喜造と橋本汽船

橋本家と橋本喜造

長崎を拠点に、世界を相手どった海運業へ

橋本家は豊前中津藩士の家系であったが、明治維新後、橋本半平(はしもと はんべい)は肥料商を営んだ。その弟である雄造(ゆうぞう)は、維新後、長崎に行き金物輸入商独逸商館イワジシ商会に入社する。1872(明治5)年、独立して中津屋橋本商店を開店し、金物商として「九州一」と呼ばれる成長を得る。

その後、1885(明治18)年、平戸港外で沈没したオランダ船を引き揚げ、日本で最初にサルベージ業を始める。1877(明治10)年、橋本商店船舶部を開設する。1888(明治21)年、フランス汽船スローエン号(3,000トン)が清に航行中に台風のため五島の黄島沖で沈没した。橋本商店はこの船を引き揚げて、数十万円の利益を得る。

1889(明治22)年には、アメリカの砲艦ぺラス号の払い下げを受け、商船・瓊港丸に改造し、国内で定期航路を開設した。日清戦争後の1896(明治29)年には、中国の上海・漢口間の荷客用の定期航路を開くなど規模を拡大する。日露戦争後には、旅順港内で沈没したロシア軍艦の引き揚げ、解撤を命ぜられその数、全体の約半数に及んだ。

喜造(きぞう)は、1872(明治5)年、半平の次男として大分県の中津に生まれる。「明敏かつ聡明」であった喜造は、小学校を卒業すると同時に、叔父の雄造に招かれて養子となる。そして、長崎商業学校(現・長崎商業高等学校)卒業後、上京して東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学(諸説あり)、卒業後に海外に遊学する。さらに、アメリカのタンカー船に乗り込み航海しながら見聞を広めた。帰国後は養父・雄造の下で働く。

1906(明治39)年、実父・半平の願いもあって、長崎県佐世保市松浦町(現住所)に橋本喜造商店を立ち上げる。佐世保の海軍用達商を営むほか、サルベージ業で10万円の利益が上がると、日本郵船の長門丸(1,990トン)を買い受け、海運業に乗り出す。当時は日露戦争の反動で、船成り金が没落、船舶市場は投げ物が続出している状況であった。

不況の中で中古船を次々に買い受け「狂気の沙汰」と言われたという。しかし喜造は、国内ではなく、外国航路での大型取引を目論んでいた。好景気の南洋諸島に目を向けて成功を果たす。やがて第一次世界大戦の勃発で、海運市場は活況を呈する。喜造は多数の大型船を建造、購入し、傭船を主とした世界航路を開設する。

1916(大正5)年には、独立10周年を機に、事業拡大のために神戸へ移転する。第一次世界大戦末期には、鞍馬山丸(11,000トン)、笠置山丸(5,200トン)等を建造し、所有船舶は66,200トンに達した。このうち鞍馬山丸は、当時日本最大級の貨物船であった。一方、戦禍のために建国丸など合計4隻をドイツの水雷艇、浮流機雷によって沈没させられた。保障として、戦時保険金と日本政府から戦害救済金が支給された。この経験が後の高層ビル建設計画につながっていく。

喜造の仕事は「南北米大陸の両岸、北はアラスカ、南はマゼラン海峡まで乗り回し、太平洋を自家庭内の小池の如く熟知する間に、世界各国の人間から、その国土の事情に関する知識を吸収、これこそは橋本の無形の財産として、今日の基礎を成す。橋本の事業は戦争の有無にかかわらず、発展すべき運命を持っている(「実業之世界」)」と評されている(『日本経済新聞』

2011年6月25日付電子版)。

そして、「海を知ろうとする確固たる意志」「頑丈な体」「英語の知識」「機関操縦の知識」という4つの宝を持ち、敬神家かつ楽天主義者であった喜造は、海運業とビルディング業界に大きな影響力を及ぼす存在になっていく。

写真:橋本雄造

橋本雄造

中津藩士として参勤交代の江戸詰め中に明治維新を迎え、商人を志して長崎に下り、「中津屋橋本商店」(後の橋本商会)を創業。平戸港外で沈没したオランダ船を長崎三菱造船所の造船技師グラバーの指導を受け引き揚げに成功。日本における沈没船引き揚げ第一号となる。その後、サルベージ技術を確立させ、日露戦争後、旅順港内のロシア艦船の約半数を引き揚げる。日本サルベージ業の祖。衆議院議員・貴族院議員。

写真:橋本喜造

橋本喜造(1872–1947)

大分県中津生まれ長崎県育ち。実業家・政治家の橋本雄造の養子となり橋本商店に入店。橋本商店船舶部を引き継ぎ1918(大正7)年、橋本汽船を設立。さらに、堂島ビルヂング、佐世保汽船、龍王汽船、雲仙観光ホテル等を設立。長崎新聞社、佐世保商業銀行取締役等を歴任した。また、佐世保市議、長崎県議を経て、1917(大正6)年、衆議院選挙に立候補、3回連続当選、憲政会総務となる。 上海にて撮影。

写真:長崎大学瓊林会館

長崎大学瓊林会館
(旧・長崎高等商業学校研究館)

橋本喜造は、1919(大正8)年、長崎高等商業学校に研究館を新築して寄贈。煉瓦造2階建、スレート葺、建築面積258㎡、車寄付。意匠はセセッション風。原爆被害は比較的軽微であった。1949(昭和24)年、長崎大学に包括され経済学部に継承された。1972(昭和47)年、同窓会組織「瓊林会」の寄付による改修を経て「瓊林会館」となる。2007(平成19)年、国の登録有形文化財に登録される。戦前の長崎の貴重な文化財であるとともに、堂島ビルヂング以前の現存する喜造の足跡でもある。

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