第1章|大大阪時代

店舗・貸事務所概要

大大阪の文化センター。
ユニークな直営施設とバラエティに富んだテナント群

堂島ビルヂングは、意匠などの装飾性よりも、合理主義に基づく利便性を重んじ、店舗や事務所が働きやすい環境を徹底的に整えた。それはさながらひとつの街や巨大客船の面持ちであった。

開館当初から1階に銀行や郵便局、地階には食堂や理髪店、クリーニング店、2階には百貨店などが入居し、館内でたいていのものが揃った。3階から6階までは貸事務所で、7階、8階、屋上庭園は堂島ホテル解散後に直営となる堂ビルホテルが運営した。

市電、市バス、青バス(大阪乗合自動車株式会社)の停留所がビルの前にあり、1933(昭和8)年の地下鉄開通後は淀屋橋駅からも近いため、交通の便も抜群だった。市庁舎は大江橋を渡って堂島川対岸にあり、さまざまな行政手続きにも便利であっただろう。

しかし、当時の大阪の商店の基本は、自前の店舗を構えることであり、ビルに入居する習慣はなかった。テナントを埋めるにはかなり苦労したようだ。そのため初期からのテナントには、橋本喜造の国際的なネットワークもあってか、米国アツソシエテツド石油株式会社関西代理店、カーチング商会、カールヘン商会、紐育ドツチ・エンド・セーモア商会など、外国の商社の日本事務所が目につく。

地下鉄の建設工事のため、当初、ビル前の路上は材料・機器の置き場となった。ビルの出入りの障害となっており、騒音が大きいなどの問題もあった。

第22期(昭和5年10月1日~6年3月31日)、第23期(昭和6年4月1日~6年9月30日)の営業報告書では、ビル貸室の稼働率は有効面積に対して84%弱程度でかんばしくなかったという。貸室料は坪当たり10円から25円(1階の御堂筋面)、水道・瓦斯・暖房・共用場所の掃除はすべて堂島ビルヂングが負担し、電話料・電気料のみ借室人の負担であった。

この時期、昭和恐慌が起こり、1931(昭和6)年から1935(昭和10)年頃までの景気沈滞期には賃料の値下げも行われている。また、減資を行ったり、役員も報酬を半額にし、苦境を乗り越えた。

同時に、2階から6階にかけて、空き部屋が多数出ていたため、それらを埋めるため、堂ビル女学院をはじめとしたさまざまな女性教育機関を設立した。

その他、代表的なテナントとして、堂島ビルヂングの設計・施工会社であり、竣工後に3階に本店を置いた竹中工務店がある。化粧品会社の中山太陽堂は1階のショーウインドー付き店舗で商品を販売したほか、5階の全フロアを借り切り、中山文化研究所を開設した。一時期、4階に系列のプラトン社のオフィスを置いている。9階全フロアは、戦前1,500人を超える実業家を擁した社交倶楽部の清交社が借りている。女性写真家の草分けである山沢栄子(やまざわ えいこ)は、1931(昭和6)年から1935(昭和10)年まで3階にスタジオを構え、清交社社員を撮影した。これらのテナントは、単なるテナントを超えて、堂島ビルヂングが「大大阪」の文化センターとなっていく原動力となった。詳細は別項で紹介する。

また、3階に入居していた戸張ほねつぎ療院は、戦前の武道団体、大日本武徳会に所属し、大阪府柔道連盟会長であった天神真楊流の戸張滝三郎(とばり たきさぶろう)が運営していた。戦後になると天神真楊流を継いだ妻の和(かず)が、ビルの地下に柔道場を開設した。美貌の柔道家として知られ、女優の緑魔子(みどり まこ)や大原麗子(おおはら れいこ)も稽古を受けに来たという。

1919(大正8)年に設立された大阪変圧器株式会社(現・ダイヘン)も、竹中工務店の本社移転後に、堂島ビルヂングに営業所を構えていた。ダイヘンの社史には、堂ビル女学院の女学生とエレベーターや廊下ですれ違う社員のエピソードが記載されている(『大阪変圧器五十年史』大阪変圧器、1972年)。堂島ビルヂングは文化センターであるとともに、多くの学生や企業家の保育器となり、巣立っていく様子を見つめていくことになる。

居住者氏名・堂ビル百貨店・館内の現況

『株式會社堂島ビルヂング建築槪要』より。

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