堂島ビルヂングは、1923(大正12)年に竣工された近代建築です。ニューヨーク在住の日系アメリカ人建築家の妻沼岩彦が原案、関西を代表する建築家の武田五一が建築顧問、「竹中の至宝」と小林一三に言わしめた鷲尾九郎が実施設計を行い、セセッション・アールデコ・初期モダニズム建築等の要素がありました。
それ以前の歴史主義建築と比較して、装飾よりも機能や設備を重視し、オフィス環境の充実を図りました。とはいえ、簡素ながらも9階建ての高層ビルの走りとして、玄関や屋上のエレベーター塔屋などに風格のあるデザインが施されていました。
戦後、2回の改修を経て、外観はかなり変更されていますが、往時をしのばせる風格をたたえるデザインが施されております。また、内部空間にはさまざまなところに近代建築を思わせる痕跡が残っております。是非、大阪の都市を見続けてきた建築をご堪能下さい。
竣工時は、堂島ビルヂングは、セセッション・アールデコ・初期モダニズム建築等の要素を持つ機能的なデザインでした。屋上まで到達するエレベーターを収納する塔屋の幾何学的なデザインと1階のショーウィンドーや玄関のアーチが特徴的でした。東側は、もともと曽根崎川(蜆川)が堂島川と合流する「堂島」の東端にあたり、敷地に合わせて半円形になっています。中庭はありませんが、採光と換気のため3階にバルコニーがある凹型をしています。その特徴的な外観は、堂島川から撮影され多くの絵葉書になりました。
竣工時(1923年) 提供/株式会社竹中工務店
堂島川から見る堂島ビルヂング(右端)
戦中に金属供出され設備の大半を失いましたが、空襲では屋上のクラブルームが焼失したりガラスが割れたりした程度で大きな被害はありませんでした。外観の汚れや設備の老朽化を刷新するため、外観は3つの小窓を横連装窓にして、水平ラインを強調し、6基の客用エレベーターを4基にしてサイズを大きくするなどしました。
昭和の改修時(1960年)
阪神淡路・大震災において、多くの横連装窓が落下しましたが、大きな被害はありませんでした。その後、窓が落ちないよう耐震性のガラスカーテンウォールに改修し、中層部は垂直ラインを強調、下層部と上層部には蛇紋石や花崗岩を使った抑揚と風格のあるデザインを施しました。
平成の改修時(1999年) 写真/野村建設工業株式会社
かつて堂ビルホテルが屋上に宴会場と庭園を運営し、御堂筋一の高層ビルであった堂ビルの眼下には、瓦屋根の平屋が立ち並ぶ「黒く低い屋根の海」(小出楢重「上方近代雑景」)が広がっていたようです。現在では、超高層ビルが立ち並び、高速道路が走っていますが、日本銀行大阪支店や大阪市中央公会堂、大阪府立中央図書館など、当時と変わらぬ中之島の建築群が往時の面影をしのばせます。
北側(1923年)
南側(1923年)
東側(1923年)
西側(1923年)
北側(2019年) 撮影/勝又公仁彦
南側(2019年) 撮影/勝又公仁彦
東側(2019年) 撮影/勝又公仁彦
西側(2019年) 撮影/勝又公仁彦
正面玄関
カンパニーカラーの深緑、蛇紋石と花崗岩を使った幾何学的な玄関に加え、手摺など随所に銀杏の文様を採用しています。
写真/野村建設工業株式会社
風除室天井
四角形を重ね、段差をつけた8角、8つの円筒状の電灯をつけ、アールデコ風の意匠になっています。
写真/野村建設工業株式会社
エレベーターホール
エレベーターを水平に横断する、カンパニーカラーの深緑の淵を入れ、照明は銀杏の文様をあしらっています。
写真/野村建設工業株式会社
エントランスホール
堂島ビルヂングは、南北に大阪を縦断する御堂筋に面して建てられ、かつての曽根崎川(蜆川)が堂島川に合流する堂島の東端に位置しています。エントランスホールは、玄関からビルを縦断した東西の通路の中央部にあり、南北に縦断する通路と交差した空間です。2階以上は南北の通路はエレベーター手前にあるため1階は特別な雰囲気を称えています。
写真/野村建設工業株式会社
階段室手摺
アルミダイキャストを使用した六芒星の文様には、キーカラーの深緑色が塗られ、木の手摺がつけられています。
写真/野村建設工業株式会社
1階郵便局欄間
アルミダイキャストを使用した六芒星の文様には、キーカラーの深緑色が塗られ、アールデコ風のデザインの欄間になっています。
写真/野村建設工業株式会社
螺旋階段
竣工時より現存する螺旋階段で、往時の人々と同じ空間を味わえます。
金庫室
竣工時より各フロアに設置されていた貸金庫室で、現存しています。現在は、6階フロアのみ利用可能で、「生きた建築ミュージアムフェスティバル」等で公開しております。
タイル
竣工時の地下食堂に貼られていた一部のタイルが残っています。「生きた建築ミュージアムフェスティバル」等で公開しております。
撮影/小檜山貴裕