日米をまたにかけた一大プロジェクト
1919(大正8)年9月、橋本喜造と合名会社竹中工務店社長の竹中藤右衛門(たけなか とうえもん)は、株式会社藤本ビルブローカー銀行の長井信太郎(ながい しんたろう)の同席のもと、神戸と大阪で複数回会合を開催、会社創立について相談している。長井は、後に株式会社堂島ビルヂングの専務として喜造の右腕となる。同年10月には、「大阪センタービルディング」の計画が立てられ、11月には「ビルディング目論見書」について協議が行われた。その後「大阪ビルディング」に改称される。
1920(大正9)年1月には、創立趣意書・起業目論見書・起業費予算・仮定款などが作られた。起業目論見書には、「當會社(とうかいしゃ)買入土地ハ、現所有者橋本喜造氏ガ豫(かね)テ『ビルディング』建設ノ目的ニテ買入レラレタルモノヲ氏ニ乞ヒ譲リ受ケタルモノニシテ、而(しか)も氏に於(おい)テ敷地上ニ存在セル現建物全部ノ取拂(とりはら)ヒヲ爲(な)シタル上提供セラレ、且(か)ツ其代金ノ一部ハ當分(とうぶん)年利八朱(はちしゅ)ノ割合ニテ延拂(のべはら)ヒノ承諾ヲ得タリ」と記載されており、喜造が購入した土地を新会社に格安で譲渡する案になっている(『株式會社堂島ビルディング起業目論見書』1920年)。その後、大阪商船株式会社による同名のビルの建築計画が発覚し、名称は堂島ビルディングに変更された。
喜造は、1920(大正9)年4月、資本金500万円(払込金225万円)で、ビルの建設母体となる株式会社堂島ビルディングを設立した。創立総会が開催され、自ら代表取締役に就任する。同社は大阪市東区北浜5丁目30番地(現・中央区北浜4丁目)の株式会社藤本ビルブローカー銀行内に置かれた。1922(大正11)年11月3日には、堂島ビルヂングに商号が改称された(以降、堂島ビルヂングに表記を統一)。
起業目論見書には、「建築ニ就テハ設計、監督、實施(じっし)等二關(かん)スル一切ヲ合名會社(ごうめいかいしゃ)竹中工務店ニ依囑(いしょく)シ、同店ノ機關(きかん)ト經驗(けいけん)トヲ利用セントスルモノニシテ、工事費ハ凡(すべ)テ實費(じっぴ)計算トシ、同店ヘハ一定ノ報酬ヲ支拂(しはら)ヒ、以テ工事ノ速成ト安全ヲ計リ併(あわせ)テ有利ニ建設センコトヲ期ス」と記載されており、竹中工務店の役割の大きさがうかがえる。竹中は取締役にも就任し、直後に、米国視察とニューヨーク在住の建築家、妻沼岩彦(つまぬま いわひこ)に設計を依頼するために渡米する。
その他、取締役には山口半兵衛(やまぐち はんべえ)(山口銀行当主)、井田亦吉(いだ またきち)(鈴木商店専務)、西正次郎(にし まさじろう)(新興商船監査役、後に堂ビル女学院校長)らがいた。また、株式会社伊藤萬商店(後の伊藤萬株式会社)の伊藤萬助(いとう まんすけ)、大阪野村銀行(後に野村證券を分社)の野村徳七(のむら とくしち)、千島土地株式会社の芝川又右衛門(しばかわ またえもん)、株式会社田村駒商店(後の田村駒株式会社)の田村駒治郎(たむら こまじろう)など、当時の大阪財界を代表する企業家たちが出資している。
そして、6月1日付で、大阪府知事、池松時和(いけまつ ときかず)宛てに「新築願」が提出された。竹中工務店の便箋を用いた書面には、使用目的は貸事務所、構造概要は鉄骨鉄筋コンクリート造、地上9階・地下1階、敷地坪数は770.015坪、建坪数は地下と1階は614.708坪、2階から9階までは572.486坪とあり、その他、基礎・柱・壁・昇降機・暖房・避雷針など細かい記載がある。さらに、英文による図入りの解説も添えられている。
しかし7月に入ると、長井から妻沼建築事務所に、御堂筋の拡幅が公示され敷地の前面切り取りが決定されたという書状が届く。妻沼は米国視察中の竹中と協議し設計を中止する。また当初、堂島ビルヂング用の鉄材はアメリカで買い付ける予定だったが、この年、第一次世界大戦後の戦後恐慌が起こり、国内市場が暴落したため国内調達に変更する。こうして、時流に大きく影響を受けながら、日米をまたにかけた一大プロジェクトが開始される。
『株式會社堂島ビルディング創立趣意書・起業目論見書・起業費豫算・假定款』(表紙)
堂島ビルヂング、1920(大正9)年 大阪ビルディング株式會社が消され、株式會社堂島ビルディングに修正されている。
大阪ビルディング株式會社建築全景
『株式會社堂島ビルディング創立趣意書・起業目論見書・起業費豫算・假定款』より。 9階建ては同じだが、角のアールなど細かい意匠が異なる。
新築願
1920(大正9)年6 月1 日提出。構造や建材だけではなく、防火・暖房・衛生・換気などの設備が細かく記載されている。
新築願
(英文補足)英タイトルは、Typical Calculation for Slab, Beam, Girder and Column for Dojima Buildingとあり、柱梁などの構造計算が示されている。
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