第1章|大大阪時代

堂島ビルヂングの敷地

堂島の東端、大江橋北詰の土地を取得

橋本喜造は、かつて堂島川と曽根崎川(蜆川)が合流していた「堂島」の東端、大江橋北詰の土地を取得し堂島ビルヂングの敷地にする。さらに、その後の市区改正による地名の変遷を堂島ビルヂングに残る敷地図より見ていきたい。

大阪市北區堂島濱通一丁目船大工町 橋本喜造名義所有地

大阪市北區堂島濱通一丁目船大工町 橋本喜造名義所有地

橋本喜造が取得した敷地図。それぞれの区画に坪数が記載されている。黒字は登記所、赤字は北区役所の数字。赤く塗られた土地は、他人所有地で未取得だったようである。画面中央の上下(東西)の線に堂島船大工町と堂島浜通1丁目の町境がある。画面下は、梅田新道の電車軌道。画面中央下の左右(南北)に青字で切取線が引かれており、この西部と北部の敷地を大阪市に無償で譲渡した。梅田新道は拡幅されて御堂筋となった。

地図名不明

地図名不明

橋本喜造が取得した敷地図。元の所有者の名義が記載されている。『第十四世竹中藤右衛門叙事伝』(竹中工務店、1968年)によると、1920(大正9)年12月19日、竹中工務店の大阪出張所が堂島ビルヂングの敷地に移転する。敷地前面の切り取り予定地にあったシンガーミシン会社の建物を借りて入居したとされ、地図に記載されている「木造スレート葺の西洋館」の可能性がある。シンガーミシン会社は竣工後、堂島ビルヂングに入居したという。右中央にある「進藤嘉三郎」(進藤商店)の土地は、立退問題がこじれたため、その部分だけ避けて工事が進められた。1922(大正11)年2月3日、大阪駅前通りに鉄筋コンクリート造2階建ての建築を建てて提供する条件で解決したという。梅田新道は大江橋筋と記載されている。

北區絹笠町更正町名及地番 堂島浜通一・船大工町一・曽根崎新一編入

(昭和十年旧堂島浜一丁目が市区改正に依り絹笠町と変更改められし以後の地番) 市区改正により、右隣町であった絹笠町に編入された。周辺地区と併せて、大阪市に譲渡した土地も記載されている。

北區絹笠町更正変更図

(曽根崎新地一丁目一部・堂島船大工町ノ一部・堂島浜通一丁目一部町名番地変更)堂島ビルヂングの敷地は、絹笠町46、47、48、49、50、51へと変更された。その後、堂島ビルヂングの住所は、絹笠町50番地となった。

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