第2章|昭和の改修時代

橋本昭一と戦後の堂島ビルヂング

2回の大改修を実施した堂ビルの遺伝子の継承者

橋本喜造の孫にあたる昭一(しょういち)は、誠実厳格・公正無私を信条に、堅実主義を経営理念に掲げ、戦後の堂島ビルヂングを支えた。1947(昭和22)年、喜造が亡くなり、息子の喜久雄(きくお)が後を引き継ぐが、1949(昭和24)年に42歳の若さで急逝した。そのため慶應義塾大学に在学していた弱冠22歳の昭一が橋本汽船株式会社と株式会社堂島ビルヂングの三代目社長となった。

橋本汽船は、第二次世界大戦及び直後に船舶を9隻喪失している。1946(昭和21)年に公布された戦時補償特別措置法によって、「戦時補償特別税」として没収されたかたちとなり、極めて困難な状況にあった。代船として城山丸、鐵山丸の2隻を譲り受けたが、1950(昭和25)年に城山丸を売却、1953(昭和28)年に鐵山丸も売却している。

1949(昭和24)年、ドッジ・ラインによりインフレは沈静化したが不況となり、内航荷動き量は減少、滞船は多数に上った。朝鮮戦争で一時市況は好転したものの、橋本汽船は運賃下落の影響もあり、昭一の社長就任後、赤字経営を余儀なくされた。

1951(昭和26)年、橋本汽船は海外から鉄鋼専用船の絹笠丸(8,669トン)を購入したが、不運にも処女航海で座礁の憂き目にあう。1952(昭和27)年、龍神丸(8,594トン)を購入、堂島ビルヂングも抵当となった。その後、龍神丸を大洋海運株式会社の所有する大久丸と交換、けいゆう丸(10,540トン)と改名し、川崎汽船株式会社に貸船した。

中小海運会社が多く倒産するなか、経営努力によって切り抜けた橋本汽船は、昭和30年代半ばから始まる高度経済成長期を迎えた。鉄鋼と石油の運搬が主流となり、この間の利益を船舶の減価償却不足額に充当、7年で償却不足分を解消した(オイルショック後、採算が悪化し、1991年に橋本汽船は営業休止)。

一方、堂島ビルヂングは戦時中、金属供出によって設備の大半を喪失したため、戦後、復旧工事が行われた。しかし、外地からの引き揚げ者などがテナントや空室で不法占拠を行って生活し、また貸しや貸借権の転売による闇商売が横行したこともあった。貸ビル業としての維持は困難で家賃収入は激減した。

不法占拠者退去のための裁判が続出し、暴力沙汰になるような騒動であったが、信義誠実をモットーに昭一が陣頭指揮をとり、社員一丸となって、一件毎にそれらを解決した。1954(昭和29)年に全売上高を1億円台に回復させた。

創立40周年を機に昭一は堂島ビルヂングの大改修を決断し、1億2千万円を借入する。内外装の改修、冷房設備の新設など、1959(昭和34)年から1960(昭和35)年にかけて工事を行った。外装は施工を担当した竹中工務店ではなく、社長同士の信頼関係もあり、財閥解体の影響で戦後に不動産・建設業として独立した野村建設工業株式会社に依頼した。経験の浅かった野村建設工業にとっても経営的・技術的基盤となったようである。

1995(平成7)年に起きた阪神・淡路大震災では、躯体には目立った損傷がなかったが多数のガラスが落ちたため、設備の刷新も兼ねて二度目の大改修を決意した。バブル時代に投機の誘惑にのらず内部蓄積に徹したことにより、優良企業として関係銀行から融資を快諾され、1996(平成8)年、総工費40億円の資金を投入する。内外装に加え個別空調やOA 設備を新設する大改修工事を行い、1999(平成11)年秋に完成した。

昭一は社長在籍50年を超え、堅実な経営とともに二度の大改修を実施し、社会のニーズに合った改革を推し進めた。創立100周年を迎えることができたのは、喜造の志を継いだ昭一の功績が大きい。

幾春丸の甲板で記念撮影をする橋本昭一

幾春丸の甲板で記念撮影をする橋本昭一

記録映画台本『新装なつた堂島ビルヂング』堂島ビルヂング

記録映画台本『新装なつた堂島ビルヂング』 表紙

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記録映画台本『新装なつた堂島ビルヂング』 中面

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