第1章|大大阪時代

中山太陽堂・中山文化研究所

プロモーションの旗艦店と先進的メセナ事業

中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)は、中山太一(なかやま たいち)によって、1903(明治36)年、神戸市花隈町で洋品雑貨と化粧品の卸商として創業された。中山は、新聞広告や広報誌、自動車や飛行機による宣伝、博覧会での展示など、先進的な広告やさまざまな文化事業を手掛けた経営者として知られている。

1906(明治39)年、今までの舶来化粧品とは異なり、天然植物性原料を主体とした自社製造第一号商品である「クラブ洗粉」を発売する。現在のクラブコスメチックスでも使用されている、「双美人」のパッケージデザインや広告宣伝によって評判となった。

中山太陽堂は、1918(大正7)年、大阪市南区水崎町(後の浪速区)に新本店と工場を建設する(設計・施工は竹中工務店)。「大大阪」を代表する企業のひとつとなる。

中山太陽堂は、1923(大正12)年に竣工した堂島ビルヂングの1階の御堂筋に面する105号室を借りて営業をした。屋上広告を設置するなど、最新の近代高層ビルであった堂島ビルヂングの存在感を最大限に利用したといえる。

また、堂島ビルヂング竣工の1923(大正12)年7月、創業20周年記念事業として、中山文化研究所を創立する。5階のフロア全体を借りて、翌1924(大正13)年に開所した。5階の一部には、「クラブ堂ビル専売品」と名付けた特製品と子会社であるプラトン文具の営業所が置かれた。同時に、東京の丸ノ内ビルヂング内にも中山文化研究所が開所されており、堂島ビルヂングが「丸ビル」と並ぶ格とされていたことが分かる。

創立趣旨には、「精神生活と合理的な物質生活との融合によって理想に近い優良な生活を実現」することを望む社会的要求に応え、文化時代の理想の一端を実現するため創設すると記されている。(『東京朝日新聞』1925年7月15日付朝刊)。中山は所主となり、初代所長には医学博士・文学博士の富士川游(ふじかわ ゆう)が就任した。富士川は科学史・児童心理などの分野に精通し、文理融合した幅広い知見を持っており所長としてふさわしい人物であった。

中山文化研究所は、女性文化研究所、整容美粧研究所、口腔衛生研究所、児童教養研究所の4部門を柱とし、それぞれ著名な学識経験者を所長や顧問として招き、自主的な活動を行った。

なかでも、中核となったのが女性文化研究所である。家政・文芸・科学などの多様な婦人文化講座を開設、さらに婦人文化研究を行うとともに婦人談話室などを運営した。整容美粧研究所には、皮膚衛生研究部、美容皮膚診察部、整容技師養成部、整容美装相談部を設け、皮膚科の診療も行った。本業の業務とも関連が深いこともあり、最新の研究を行いながら、技師の養成、美装や治療の実践、講演を行うという本格的な教育研究機関であった。

口腔衛生研究所は、最新鋭設備を誇る歯科診療診察室を開くとともに、まだまだ意識の低かった口腔衛生の重要性を普及するため、歯磨き奨励活動を主業務とし、全国各地の学校に巡回歯科診療を行ったり、講演や映画、出版による啓蒙活動を行ったりした。児童教養研究所は富士川が所長を兼任、児童教養講座、教育相談、児童の健康診断を行うなど、児童教育に力を注いだ。

1954(昭和29)年4月に閉所されたが、中山文化研究所の公益的な文化事業は、今日でいうメセナ活動でもあり、先進的かつ画期的なものだったといえる。

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