第1章|大大阪時代

大阪ビルディング協会

近代ビル初の業界団体

1921(大正10)年竣工の大江ビルヂングや、1923(大正12)年竣工の堂島ビルヂングを皮切りとして、1925(大正14)年には大阪ビルヂング(旧・ダイビル本館)、1931(昭和6)年には大阪朝日ビルが竣工し、大正末期から昭和初期にかけて近代的なオフィスビルが大阪にも建つようになった。

しかし、1927(昭和2)年には昭和金融恐慌、1929(昭和4)年には、ニューヨークに端を発する世界恐慌が起こり、賃貸ビル業界も景気の悪化によってテナントが集まらないという苦境にあった。堂島ビルヂングも、直営学校の経営などで貸室を埋め、役員報酬の減額などによって不況を乗り越えようとした。しかし、緊縮政策のもと企業の倒産や失業者も増えており、業界の結束が必要になってきた。

1929(昭和4)年の夏頃から、堂島ビルヂング、大阪ビルヂング等が中心となり、各ビル業者に呼びかけるかたちで、翌1930(昭和5)年2月、ビルディング懇話会が発足した。同年5月には初代会長に、堂島ビルヂング社長の橋本喜造が就任、幹事となるビルとして、大阪ビルヂング、大江ビルヂング、大同ビルディング、船場ビルディング、江商ビル、京阪ビルディング、野村ビルなどが選ばれた。当時、賃貸ビル業界で日本唯一の業界団体であった。その後、組織は発展していき、1940(昭和15)年頃、ビルディング懇話会から大阪ビルディング協会に改められる。

1940(昭和15)年2月初旬、東京からの要請に応え、大阪から代表2人が上京、適正賃貸料の検討や連合会結成問題を協議する。同月19日、日本ビルヂング協会連合会の発足式が挙行され、大阪から橋本喜造(㈱堂島ビルヂング)が連合会副会長に、駒田万二(㈱大阪ビルヂング)、広瀬渉(㈱江商ビル)、高山準平(㈱堂島ビルヂング)、谷村直(都島ビル)らが、それぞれ理事および幹事に就任した。当時、業界の大きな課題は適正賃貸料の算定であったが、交渉の壁は厚く目的の達成は困難を極めた。

1931(昭和6)年に満州事変、1937(昭和12)年には盧溝橋事件が起こり、日中戦争が激化していった。1941(昭和16)年に太平洋戦争に突入すると、物資統制の対象は、青果物・鮮魚介類・食肉・芋・水産物・特殊鋼・繊維品など次々と拡大され、商都大阪の基幹産業であった問屋・卸商・仲買人の業務は疲弊していく。そして、1941(昭和16)年12月の企業許可令、1942(昭和17)年5月の企業整備令の公布によって、大阪を支えていた商業組織は壊滅的になった。

大阪ビルディング協会の例会も、1944(昭和19)年3月10日、大阪ビルヂングでの開催をもって中断される。1945(昭和20)年、8回にわたる大阪大空襲により、都心から臨海地帯にかけて市域の約30%が焦土と化したが、堂島ビルヂングをはじめとしたビル群は焼け残った。戦後、1946(昭和21)年4月15日に、接収を免れた堂島ビルヂングの清交社の別室で例会が再開される。翌年の1947(昭和22)年2月20日には大阪のビルディング業界を牽引してきた喜造が逝去したことで会長が交代し、戦前から引き継がれた体制に一区切りがつくことになる。

大阪ビルディング協会は、1971(昭和46)年に社団法人の認可を受け、2013(平成25)年に一般社団法人に移行した。

吉田豊『大大阪市市勢大觀』(部分)東亜地誌協會、1935(昭和10)年 ジャパンアーカイブズ提供

吉田豊『大大阪市市勢大觀』(部分)東亜地誌協會、1935(昭和10)年 ジャパンアーカイブズ提供

中之島・御堂筋周辺を拡大。堂島ビルヂングには、清交社に加え、洋裁・割烹など堂ビル女学院の系列学院も記載されている。1930年代には、多くの近代ビルが建てられていることが把握できる。

100年史TOPへ